軽井沢

62)浅間1200m林道 平賀
「浅間第二幹線林道」でNC誌No194にガイドが載っている。中軽井沢「かぎもと屋」で腹ごしらえ。 朝からやっているので便利だ。田舎蕎麦とけんちん汁で700円(58/10/26)だらだらと峰の茶屋まで走り 、駐車場の左手奥にゲートがありそこから入る。殆どガイド通りに走り小諸では「山へい」にて蕎麦を食べて終わる。(^_^)
略図
141)二度上峠 1310m 平賀
朝からやっている「かぎもと屋」で腹を整える。峰ノ茶屋への登りでヤナギランが咲いていた。 二度上峠への道は舗装工事中だった。車が来ると凄いホコリで、暫く走ることが出来なかった。
(56/7/29)
左の写真をクリックすると美しいヤナギランの写真が拡大します。手持ちの写真がなく、 「小さな小さな写真館」様から頂きました。汗を拭き、ふと見上げた青い空の下、赤紫の花が光っていた。あの時の言葉 に表せない清涼感を、この一枚の写真で思い出すことができます。有り難いことです。

193)軽井沢・旧中山道から旧碓氷峠  1190m 平賀

中軽井沢--蕎麦・かぎもと屋--離山(はなれやま)--二手橋--旧碓氷峠--横川 (60/5/8)

毎度のことながら「かぎもと屋」で腹ごしらえ。中山道を軽井沢方面に戻り旧中山道へ入る。旧碓氷 峠から右手に入る道を間違えたら行き止まりだったが、タラの木が群生していた。お土産に少々持ち 帰り(^_^)旧道は下りづらい箇所もあるが、まず人と出会うこともなさそうな道である。「安政遠足( とおあし)」の案内板が目立つが、そう言えば毎年五月に実施されるイベン トなので終わった後なのだろうか。
日本の歴史や文化にはまるで疎い(それだけ?・・なんて 声もしてますが)私ですが、以下に私の好きな「中山道巡検」より、軽井沢宿を入れておきます。(^ O^) なお中山道巡検については信州和田村役場にお聞きしたところ、「郷土クラブ」は和田村教育 委員会が管轄しているとのことで、そちらに改めて問い合わせました。(0268-41-6123)「当時の管理 者がもういないので詳しいことは分からない」とのこと。私のHPでこんな具合に紹介している旨を 話したら、「かまわないのでは」とのご返事をいただいております。 略図

「中山道巡検」H4.9.27.(日)郷土クラブより
軽井沢宿
防人のみち


信濃路は碓氷峠よりはじまる。
この峠路の歴史は古く、宿場時代はおろか、遠い古代に、唐や新羅(しらぎ) などの侵入を防ぐために、北九州の守備にあたらされた防人(さきもり)たち の通行路として、すでに利用されていたという。
   ひなぐもり碓日(うすひ)の坂を越えしだに
   妹(いも)が恋しく忘らえぬかも
万葉集巻二十に残るこの歌には、朝廷の命に従って妻との離別を余儀なくされた悲しき防人の、おも いのたけがこめられており、千数百年をへだててもなお、人の心に訴えかけるものがある。
その万葉歌碑の立っている見晴台(みはらしだい)を過ぎて、今日の信濃路の 旅をはじめることにしよう。
上信国境の峠から軽井沢宿へと下る中山道は、いまでは雑木林にさえぎられて通行不能。かたわらを 走る舗装路を歩くことにして、麓の二手橋までたどりつく。”二手”とは、往時の旅籠屋の女たちが 峠へと旅立つ客を橋まで送って、二手に分かれたゆえんとか。
旧中山道はこのあたりから通行可 能となる。しかし舗装され拡幅されて延々と続くその景観に、旧時のおもかげを求めることは、不可 能に近い。

ショーの碑

軽井沢といえば、だれしも別荘地を連想するだろう。日本全国で、この町ほど自らの機能を明瞭に言 い当てられる町も少ないのではあるまいか。
むろん古代から集落を営み、江戸初期の慶長年間には、小さいながらも中仙道六十九次の一宿場とし て機能していた町である。
明治維新----二百六十年間の宿場制度は、あたかも悪しきばかりの制度であったかのように消え去り 、軽井沢は衰退の一途をたどりはじめる。明治二十六年、信越本線碓氷トンネルの開通は、その衰退 に一層の拍車をかけたかのように見えたのだった。
しかし同じころ、軽井沢には新時代へ変貌す る萌芽が、地道ながら現れはじめていた。
明治十九年、信濃地方を布教旅行のおり、軽井沢に立 ち寄ったイギリス人宣教師、アレキサンダー・クロフト・ショーは、雄大な裾野をひろげる浅間山と、この地の清楚な美しさに魅かれ、翌年には避暑に訪れ、明治二十一年には別荘を建てた。
ショーの軽井沢礼賛は、内外の人々に反響を呼ぶ。今日に知られる通り、夏期の”軽井沢銀座”の混 乱には、別荘族のみならず、若者を中心とした観光客たちが大役をかっている。
あの皇太子と美智子妃殿下の、テニスコートのロマンが騒がれた舞台も、中仙道旧宿場町の軽井沢ではなく、国際的避暑地軽井沢であった。軽井沢の祖・ショーの記念碑を右に、その左に、
   馬をさへながむる雪のあした哉
の芭蕉句碑をのぞかせながら、雑木林に包まれた別荘地を抜けた中仙道は、やがて宿なみへ。

美しくもあり幻想もあり

今日の軽井沢宿には、旧時代の家屋や遺物はほとんど残っていない。宿の入り口に、むかし茶屋で、 芥川龍之介や室生犀星、堀辰雄らの宿泊したという鶴屋旅館があるが、旧趣をあしらった構えは最近 の建造である。
そのほか、旧道すじに散見するものは観光町軽井沢の、洒落た店や看板ばかり。 右手にある表白山神宮寺のしだれ桜や、”明治天皇軽井澤行在所(あんざいしょ)跡”碑の立つ、旧佐藤本陣のあった一角なども、今日的な軽井沢にあっては、影がうすい。
はじめ英人宣教師によって発見された清潔な自然や集落が、ゴルフ場やホテルや民宿などに訪れる人 たちの持ちこむものによって、かなりに俗化されて来た、という評価も繰り返される軽井沢----。
たしかに町並みにはその観も強いが、しかし軽井沢とその周辺の景観は、やはり美しい。景色の美し さはあまたの文人を軽井沢に招き、その体験を発露した文学は、より軽井沢に幻想を付加させて、多 くの旅人をいざなった。
北原白秋の「落葉松(からまつ)の一節、
   からまつの林を過ぎて
   ゆえゑしらず歩みひそめつ
   からまつはさびしかりけり
   からまつとささやけにけり
   ・・・・・・・・
また大正十二年六月九日、有島武郎が美貌の婦人記者・波多野秋子と、死出の旅に出たのも、旧中仙 道に近い軽井沢の別荘地三笠山だった。

194)小瀬林道 平賀

中軽井沢--蕎麦・かぎもと屋--星野--小瀬林道--小瀬--軽井沢銀座--軽井沢(H3/5/15)

かぎもと屋の蕎麦を食べようということになった。では何処を走るか、体調は絶好調という訳ではな いので、軽く小瀬林道に決まる。中軽井沢のかぎもと屋は何時来ても旨い。バイパス沿いに支店がオ ープンしたと聞くが行ったことはない。さて走り出し星野温泉方面へ曲がり、湯川の川沿いに林道は ある。「湯川林道」とものの本にあるが、通称そう呼ぶのかも知れない。下りは三笠ホテルの前を抜 け、別荘地帯を横切り、あっと言う間に軽井沢銀座に着く。自転車を押しながら町並みを見物する。 ニッカにリュック姿は浮き上がった存在のようだ。(^_^;)略図は193


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