131)笠取峠 887m 平賀 風の強いところなので笠を取り外して越したという。峠から芦田宿へ下る道に樹齢200-300年の松 並木があり天然記念物に指定されている。望月トンネル手前を右折すると鹿曲川林道経由で大河原 峠へ。略図 | ||
上田--大屋--丸子町--長久保(旧中山道)--笠取峠--望月町--小諸 望月は五支店で蕎麦、小諸では揚羽屋にて蕎麦を食べる。 中仙道と中山道 慶長五年(1600)関ヶ原の合戦に勝った徳川家康は、やがて手にするはずの政権にそなえ、軍事上の必 要から幹線道路の整備にかかり、まず江戸と京都をむすぶ東海道と中仙道を、ついで奥州・日光・ 甲州の合わせて五街道を定めた。 中仙道は東海道と同じく江戸日本橋を起点に、板橋・大宮・軽井沢・下諏訪・木曽福島・岐阜・彦根 などをへて草津で東海道と合流、そのまま大津から逢坂山を越えて京都三条大橋に達する、全長百三 十五里二十二丁(約五三○粁)宿場数六十九の、東海道とならぶ日本の幹道である。 中仙道は現在は「中山道」が使われているが、これは享保元年(1716)四月十四日に、新井白石の意見 を入れた幕府が道中奉行に指示させてからとされている。 白石は当時の第一線級の学者であるばかりでなく、厳正な姿勢でも知られ、幕府の文書習慣の改訂に まで手を染めたが、中仙道はもともとあった東山道を修復したものであり、東山道は東に向かう海辺 の道・東海道に対する”山の道”なのだから”山”が正しく、読みはそのまま”せん”とするという ものであった。 だが人々・・・とくに文学の分野では、木曽路に代表される陰影こまやかな印象をすてきれずにか、 中山道を旧称のままとしたり、”木曽街道””木曽海道””岐蘇路”などと別称した。 八幡宿(やはたじゅく) 江戸より第二十四宿。あいだに千曲川をはさ む、塩名田(しおなだ)と八幡の距離は、中仙道六十九宿のなかでも最も短い 。その距離は約三キロ、二十七丁(一丁は約109m)である。宿の名の八幡は八幡神社から来ている。 旧宿場町の中心だった一帯には卯建(うだつ)造りの旧建築をそのままにつた える建物もあるが、次第に時代の波の侵蝕を許して、今日的な背景のなかに埋没しつつある。 ちなみに、この卯建造りとは、隣合う家同士の間に大きな土塗りの壁を設け、上部を瓦葺きにした 防火防災用の障壁。これは、関東にはもともとない風習らしく、関西から信州一帯にかけて多く見ら れる建築様式といい、一説には千曲川が、その分水という。 望月宿(もちづきじゅく) 望月における育馬の歴史は古く、一説によ ると、四世紀の終わりごろ、朝鮮半島に出兵した際、強力な騎馬兵に撃破され、痛い目にあったわが 国が、良品種の馬を輸入して飼育に専念したのが、そのはじまりという。 望月御牧(もちづきのみまき)--これは望月の東北部台地にあった朝廷の御料 牧場で、文武天皇四年の七百年ごろには、望月などを先例とした、牛馬飼育の牧場が諸国に設けられ たという。 長久保宿(ながくぼじゅく) 慶長七年(1602)、関ヶ原の勝利によって天下をほぼ手中にした徳川家康は、江戸幕府開府に先立って 制定した、五街道をはじめとする全国の街道の、整備を命じている。芦田宿はずれから笠取峠頂上に いたる街道筋に、松が植えられたのも同じ年で、幕府は小諸藩に命じて赤松七百五十三本を植えさせ た。幕府がわざわざ街道に松並木を植えさせたのには理由がある。常緑の松並木が、夏は陽除けに、 冬は防風にと道ゆく旅人たちを守り、また戦略的には、いざというときに路上に切り倒して、江戸へ 進軍する謀反軍への足止めにしようとした。長久保宿の幕末における規模は意外に大きく、総家数-- 百八十七軒、総人口--七百二十一人、本陣--一、脇本陣--一、旅籠屋--四十三の記録が残っている。 なかでも目立つのは旅籠屋の数で、一時はそのなかに飯盛女が百人近くもいたこともあった。 この旅籠街の盛況を呼んだのは、ひとつには地形的な理由による。宿の前後にそれぞれ笠取峠と和田 峠を控えた長久保宿は、自ら峠越えの疲労をいやす客や、また峠越えを明日に控えた旅人たちの便宜 の宿として、賑わったようである。また当時旅人たちに人気の宿だった追分宿を東に、中仙道では 珍しく湯の湧く宿・下諏訪宿を西に控え、しかもその両宿に宿泊した場合、ちょうどころあいの中間 点に成立した宿泊地だった。 「中山道巡検」H4・9・27(日)郷土クラブ より抜粋しました。 5/9/22 上田から和田宿を通り星糞峠を目指しました。あいにくの雨、ポンチョは役に立たず全身ビショ濡れ でした。こんな時は無理をしないのが私の取り柄・・相棒の加藤氏に「ここで引き返す」と言いまし た。同じ様なポンチョで同じように濡れている筈の加藤氏ですが、「じゃ西部温泉で会おう」と走り 出しました。決めたことはやり抜くと言うか、頑固一徹と言うか、その意志の強さを眩しくも思い、 何もそこまでとも思う複雑な気持ちで、走り行く後ろ姿を見送りました。 (^_^;) 約束した西部温泉は和田宿の国道沿いにあり、さあ冷えた体を温めようと行ったらその日は休館日と の事でがっくり・・・(+o+)上田まで走って戻る気力も萎え、旧中山道和田宿バス停からバスで帰るこ とにしました。(^_^;) せっかくだから復元された本陣などを見物し、洋品屋さんで下着を買い、 バス停でこっそり着替えました。自転車をばらして輪行袋に入れ、上田までの切符を目の前の雑貨屋 さんで買い、バス停のベンチでバスが来るのを待っていました。すると今切符を売ってくれた初老の ご婦人が手招きしてます。私ですかと自分自身を指さすと、そうだと頷くので店先に行くと、白いコ ーヒーカップを差し出す。酒かなと一瞬思ったが温かくした牛乳だった。いただきながら話をする。 東京から来たこと、長野方面はよく走ること、笠取峠や旧中山道、木曽路の話をしたら喜んで下さり 、奥からご主人が所属している「郷土クラブ」制作の「中山道巡検」という小冊子を持ってきて、「 主人はあいにく留守なんですが、こんなものを作っているんです。よかったら読んで下さいな。」と 手渡してくれる。B5のわら半紙を半分にした大きさをホチキスで止め てあり、綺麗にワープロ印字された四十八頁のものだった。丁寧に御礼を言ってバスの人となる 。 途中バスを乗り継ぎ、ついでに傘を買い上田着。駅前ヨーカ堂でシャツを買って着替える。や っと心身共に平常を取り戻し、駅のベンチで「中山道巡検」を読みながら加藤氏を待ったのでした。 数時間待ったのだろうか、ポンチョをなびかせて走り来る加藤氏を見たときはホッとしました。また 目的を達した男の満足感がただよい、スーパーマンの様にも見えたものでした。(^_^;) 氏も着替えをし、第二の目的である「蕎麦刀屋」へ相合い傘で向かいました。 さて、つまり、雨が降り、私が峠越えを断念し、西部温泉が休みだった、そんな偶然の組み合わせが 「中山道巡検」に巡り合うと言う結果をもたらしました。面白いものですね。長くなりましたが最後 に私か好きな沓掛宿の一節を紹介します。 沓掛宿(くつかけじゅく) 旧街道をつぶさに見ながら歩く旅に出ると、えてしてその目は、歴史の遺物のみを追いかけがちにな る。中仙道という、徳川封建制を頂点にして栄えた、宿場制度の遺物----すでに歩く道自体がそうな のだから、旅人の目も歴史採集的にならざるをえないのだろうが、ひとつ新しいものにも等しく目を 向けて歩いてみようと試みた。 しかし、軽井沢宿をはずれて、沓掛宿へとたどってみると、やはり無意識に捜し求めているものは、 古いものであることに気づく。 江戸期の書物や、あるいは故人たちの言い伝えにあるから、興味の対象になる街道すじのもの。雲場 池だとか、かまど石だとか。 たとえば、右手に見える離山という名の山は、江戸末期の文久二年(1862)、幕府の危機をのりきる策 ののひとつとして、公武合体を意図した皇女和宮の、将軍家への降嫁の一行が中仙道を通行したとき に、縁起が悪いといって”子持山”と変えられたことがあるという山。 そればかりではない。 沓掛宿へ入ると、やはり右手の長倉神社へ足を延ばし、その裏手にある、虚構上の人物を記念した沓 掛時次郎の碑と対面することになる。 さらに町なみを進むと、旧沓掛宿の脇本陣だったという”桝屋本店”旅館や、道祖神などが続いて現 れる。 改めて考えてみると、必ずしも古きをよしとする固定観念を持たずに歩いても、旅人の目 に飛びこんで来るものは、旧時の遺構か、ないしはそれを模した外形をもったものであることがわか る。 その古きものを、周囲の町なみや路傍から際立たせているものは、むしろそれ自体であるよ りは、一様に均一化してしまった周囲の今日的な景色なのである。 長谷川伸によって書かれ、昭 和二十七年に地元の商工会の人たちによって建てられた記念碑の時次郎とは、 千両万両枉(ま)げない意地も 人情搦(から)めば弱くなる 浅間三筋の煙の下で 男沓掛時次郎 という人物だった。しかしこの土地の名士も、悲しいかな任侠仕立ての虚構の人だけに存在はうすい。 さて、なぜ古さが目に止まり、新しい町の景観が面白くないのか。むろんそれは沓掛のみならず 普遍的なテーマで、ここではやや荷が重すぎるようだ。次の宿へ歩を進めることにしよう。 |